「アリルイソチオシアネート」という物質をご存じでしょうか?
最近「ヒアリが嫌がる」という研究結果が報告され、話題になっているワサビの成分です。
分子量99.15。この比較的小さな分子が、わさびの辛味成分であり、鼻に「ツーン」とくる成分でもあります。
わさびの辛味成分の化学を紹介します。
わさびの辛味成分アリルイソチオシアネート
アリルイソチオシアネートは、硫黄原子を含む有機化合物で、わさびやからしの辛味成分です。
アリルイソチオシアネートこそ辛味の正体
古くから親しまれてきた食材、わさび。特に、刺身などで魚を生食する際に薬味として重宝されてきました。
鼻にツンとくるような辛味・風味が、生魚が持つ独特のにおいを抑えてくれます。
このわさびを食べた時に感じる辛味の原因となる物質が、アリルイソチオシアネート。
アリルイソチオシアネートはTRPA1と呼ばれる、冷刺激(冷たい刺激)を受け取る受容体を活性化します。
この信号が脳まで伝わると、私たちはそれを辛味として認識します。
からしの主要な辛味成分も、同じくアリルイソチオシアネートです。
わさびとはまるで味が違う気もしますが、風味はどれか一つの物質によって決まるのではなく、いろいろな物質の組み合わせによってもたらされます。
辛味成分は同じでも、それぞれの食品に異なる成分が様々含まれるため、わさびとからしでは風味が違ってきます。
揮発性がある
唐辛子を食べた時には、口の中だけで辛さの刺激を感じます。
ですがわさびの場合は、舌や口の中でからいだけでなく、鼻の方までツンとくるような刺激がありますよね。
これは、アリルイソチオシアネートの揮発性によるものが大きいです。
わさびを食べた時に揮発した少量のアリルイソチオシアネートが、鼻の方まで拡散して刺激をもたらします。
抗菌・抗カビ作用
寿司や刺身に使う薬味の代名詞、わさびは、昔から食あたりを防ぐ作用があると考えられてきました。
実際にアリルイソチオシアネートには、枯草菌、大腸菌、黒コウジカビや酵母の育成を抑える働きがあります。
参考:アリルイソチオシアネートによる食品の健全性確保 - J-STAGE
わさびの持つ抗菌・抗カビ作用は、弁当などに用いる抗菌シートとしても実用化されています。
わさび田 栽培には綺麗な水がたくさん必要
アリルイソチオシアネートの構造と意味
「アリルイソチオシアネート」という名前は、まるで呪文のように聞こえるかもしれません。ですが、しっかりと意味があります。
まず、「アリル」と「イソチオシアネート」で意味が区切れています。
さらに、「イソ」と「チオ」と「シアネート」にそれぞれ意味があります。
アリルイソチオシアネートは、その頭文字をとって、AITCと略されることもあります。
アリルとは、アリル基と呼ばれる置換基(分子のパーツ)のことです。三つの炭素(と水素)からなる単純な構造で、端に炭素-炭素二重結合を持ちます。
この「アリル基」というパーツがくっついた、「イソチオシアネート」なのでアリルイソチオシアネートと呼ばれます。
イソチオシアネート
イソチオシアネートは[-N=C=S]という構造を持つ化合物の総称です。窒素と炭素と硫黄が、二つの二重結合を経て、直線上に並んだ構造を持ちます。
ただの「シアネート」というものもあり、これは[-O-C≡N]という構造を持ち、酸素側で他のパーツと結合しています。
[-N=C=O]のように、窒素側で他のパーツと結合すると、頭に「イソ」という言葉がつき「イソシアネート」となります。イソとは、異性体(同じ原子からなるけど、並びが違う)を意味する言葉です。
チオとは、硫黄原子を持つ化合物のことを指します。「イソチオシアネート」では、[-N=C=S]のように、イソシアネートの酸素の代わりに硫黄が結合していますね。
イソチオシアネート[-N=C=S]の中心の炭素は、比較的電子が不足した状態であり、まずまず高い反応性を有しています(求電子性といいます)。
なお、アブラナ科の植物にはアリルイソチオシアネートに限らず、様々なイソチオシアネート類を含むものが多く存在します。
わさびやからしの他に、キャベツやダイコン、ブロッコリーなどもアブラナ科の植物で、イソチオシアネートを含んでいます。
これら植物の持つイソチオシアネート類、および、それらを含む精油(エッセンシャルオイル)のことを「からし油」とも呼びます。
「おろす」ことでアリルイソチオシアネートが生成
生育しているわさびには、アリルイソチオシアネートがそのまま含まれているわけではありません。
わさびがすり下ろされるまでは、シニグリン(グルコシノレートの一種)という配糖体(はいとうたい)の形で存在しています。
配糖体とは、ある化合物が糖と反応して結合したものをいいます。
シニグリンは、アリルイソチオシアネートがグルコース(ブドウ糖)とくっついたものです。この配糖体そのものには辛味がありません。
わさびがすり下ろされると、細胞が壊れます。
すると、細胞の中に存在するミロシナーゼという酵素がシニグリンを分解し、アリルイソチオシアネートが生じるという仕組みです。
わさびをサメ皮のおろし器でおろす理由
料理店などで生わさびをおろすときにサメ皮のおろし器が好まれるのは、細かい目によって細胞を細かく砕き、しっかりと酵素を作用させるためです。
おろして、しばらくおいて使う理由
わさびはおろした後、しばらくおいてから使われます。
これは細胞が壊れた後に、十分に酵素を作用させる時間をとるためです。
(あまりに時間をおきすぎると、アリルイソチオシアネートが揮発してゆき、辛味がなくなってしまいます。)
「酵素反応によって辛味が生じる」なんてことを知らなくても、昔の人は試行錯誤によって知恵を生み出していたのです。
チューブ入りわさびの化学
私たちが普段わさびを使う場合、チューブ入りが便利です。
ですが、先ほど述べたように、アリルイソチオシアネートは揮発性です。
チューブ入りわさびでは長い間辛味が損なわれないように、この揮発を抑える必要があります。
そこで、チューブ入りわさびには、シクロデキストリン(環状オリゴ糖)というものが加えられています。
シクロデキストリンは、グルコースがいくつか繋がって、環状になった構造をもちます。糖でできた輪っかのような分子です。
シクロデキストリンは包接化合物と呼ばれるものの一つです。その輪の中に、様々な化合物を取り込むことが知られています。
アリルイソチオシアネートも、シクロデキストリンに取り込まれる分子です。
このため、わさびにシクロデキストリンを加えておくと、輪の中にアリルイソチオシアネートが取り込まれ、揮発を防いでくれます。
(口の中に入ってから、輪の中に取り込まれているアリルイソチオシアネートは水分子と置き換わり、放出されます。)
シクロデキストリン以外にも、ソルビトールなどもアリルイソチオシアネートの揮発を防いでくれます。
今も昔も、わさびに対する日本人の思い入れは、とても強いものがあるようですね。